科学的な論文・解説以外の随筆を掲載します。(blogにするべきかもしれませんが、とりあえずここに。)
アメリカ物理学会(APS)フェローに選出されて (物性研だより 2020年1月号)
APSフェローに選出された機会に書いた文章ですが、研究内容ではなくて、アメリカの大学と社会について感じたことを書きました。 自分ではうまく書けた気がします(自画自賛)し、物性研の事務の方にもお褒めいただきました。
Kashiwa is a sad place? (東京大学 学内広報 No. 1564 2022年11月24日 コラム「淡青評論」)
僕が東大教養学部に入学した1986年の秋のことです。ある日、伊豆山健夫先生(後に、僕の修士課程での指導教官になって頂きましたが、当時から存じ上げていました。伊豆山先生は2021年に亡くなられました。)から、私に頼みごとがありました。連絡はもちろん電話で、スマートホンや携帯電話などというものもなく、自宅の「黒電話」に電話を頂きました。当時は、SNSは言うまでもなく、電子メールもほとんど普及していませんでした。
さて、伊豆山先生が仰るには、ソ連の物理学者が日本を訪れており、「短波ラジオ(受信機)」を買いたいのだそうです。1986年は、まだ「鉄のカーテン」が存在する東西冷戦時代で、「ソビエト連邦」(ソ連)が超大国として存在していました。冷戦時代、ソ連国内では「西側」の情報を手に入れるのは困難でした。電離層による反射によって非常に長い距離を伝播する短波ラジオは、西側からの情報を受信できる数少ないメディアのひとつだったのです。伊豆山先生は、僕が秋葉原に詳しいことをご存知だったので、そのソ連の物理学者の案内を頼んだのです…と書くと現代では誤解を生むかもしれませんが、当時の秋葉原はアニメショップやメイドカフェの街ではなく、「電気街」であり、マイコン(パソコン)のメッカだったのです。短波ラジオを買うにも、秋葉原が最適の場所でした。そんなわけで、僕がその物理学者を秋葉原に案内して、短波ラジオを買う手伝いをすることになりました。
よく考えると、僕が外国人と英語でまともにコミュニケーションを取ったのは、そのときが初めてだったかもしれません。その物理学者の英語もかなりロシア語訛りが強いものでしたが、何とか意思疎通はできました。彼は無愛想な人でしたが、その印象は、言語の壁のせいもあったかもしれません。また、その後、物理業界で多くのロシア人と会いましたが、最初は無愛想でも、付き合ってみると温かい人が多いです。
とにかく、彼は欲しかった短波ラジオを秋葉原で買うことができました。値段は覚えていませんが、立派そうな短波ラジオで、かなり高価だったはずだと思います。ソ連からどのようにして十分な「ハードカレンシー」(ソ連からすると「外貨」。当時は、「東側」の人が自国の通貨を米ドルや日本円にするのは難しかったはずです。)を持って来たのかわかりません。 (ちょっとこれにも関連するかもしれない情報も聞いたのですが、ここに書くのは止めておきます。) 皮肉なことに、それから数年のうちにソ連が崩壊し、その物理学者も1991年にはアメリカに移住することになりました。せっかく買った短波ラジオも数年間しか役にたたなかったわけですが、秋葉原で買い物をした当時は誰もそんなことを知るよしもありませんでした。
僕が今でも鮮明に覚えているのは、次のようなことです。彼を秋葉原近くの天ぷら屋に昼食に連れて行ったとき、彼にビールを飲むかどうか尋ねました。すると、「いや、ビールを飲むと眠くなるので…」と断りました。僕はかなり驚きました。
「しかし先生、ロシアではウォッカをたくさん飲むのではないですか?」
「うん、ウォッカは飲むよ。ウォッカは大丈夫だけど、ビールだと眠くなるんだ。」
もしかして、彼にとってビールは「弱すぎる」のでしょうか?
とにかく、その日は、僕はガイドとしての役目を果たしました。当然、伊豆山先生はその物理学者の名前を教えてくれたはずで、僕も当日は彼の名前を呼んだはずです。しかし、当時まだ大学一年生だった僕は物理をほとんど知らず、彼の名前も認識できなかったので、すぐに名前を忘れてしまいました。
だいぶ後になって、僕はふとその出来事を思い出して、伊豆山先生に尋ねました。
「ところで、僕が学部生の頃に、先生に頼まれてソ連の物理学者を秋葉原に連れて行きましたよね。あれはどなただったのでしょうか?」
「ああ、あれはジャロシンスキーだったよ」
-- なんと!!!
ジャロシンスキー(Igor Ekhielevich Dzyaloshinskii)は、物性物理の研究者なら必ず知っているような大先生です。実際、秋葉原で彼を案内してから2,3年後には、僕は物理学科の学生になっていて、アブリコソフ・ゴリコフ・ジャロシンスキー(Abrikosov-Gorkov-Dzyaloshinskii)の3人が書いた、 「AGD」として知られている有名な教科書 を輪講で読んだり(というか格闘したり)していました。しかし、そのときは、その本の著者の一人を自分が秋葉原に案内していたことに気づいていませんでした!
さらに後になって、僕がUBCでイアン・アフレックのポスドクだったとき、 S=1/2量子反強磁性鎖 Cu benzoate の「磁場誘起ギャップ」の理論 を研究しましたが、このギャップを生成する重要な要素の一つがジャロシンスキー・守谷(Dzyaloshinskii-Moriya)相互作用でした。(ちなみに、Moriyaの方は、物性研の所長も務められた守谷亨先生です。) 僕が東工大の助教授に採用されたのは、この研究も大いに助けになった気がします。
あの日、秋葉原を訪れた際に、ジャロシンスキー先生と一緒に写真を撮っておくべきでした! (当時はデジタルカメラが出てくるずっと前だったので、今ほど気軽に写真を撮りませんでしたし、撮った写真も散逸してしまっています…)残念ながら、僕がその後ジャロシンスキー先生に再会する機会はありませんでした。 (この文章の元のバージョンは、2021年7月にジャロシンスキー先生の訃報を聞いて書きました。)
この文章の元のバージョンを投稿した際、学習院大学の宇田川さんから、ジャロシンスキーが1986年秋に来日した際に東京大学教養学部で行った講演の記録が日本物理学会誌に掲載されていると教えて頂きました。
イゴール・ジャロシンスキー(生井沢寛・兵頭俊夫 訳) レフ・ランダウ : ひとつの科学的スタイル [日本物理学会誌 42巻7号 (1987年)](実は、ジャロシンスキー氏を秋葉原にお連れしたのは1986年だったか1987年だったか、僕の記憶はあやふやだったのですが、この記事のおかげで1986年に確定できました。)僕は当時講演会の存在も知らなかったので出席できなかったのですが、ジャロシンスキーの師匠でもあったレフ・ランダウに関する興味深い講演で、物理が専門の方以外にも面白いのではないかと思います。PDFファイルが公開されていますので、是非どうぞ。(訳者の生井沢先生、兵頭先生のお名前も懐かしいです。)
この文章の元のバージョンは、押川が 2021年7月に英文でFacebookに投稿したもの です。 ChatGPT (GPT-4.0)で日本語の下訳を作って、押川が加筆修正を行いました。